研究背景
近年の水害の特徴は、人的被害と経済的被害が極めて大きい堤防の決壊です。2019年と2020年の全国の被害総額は、各々2兆円程度と試算され、治水関連の1年間の投資総額に匹敵します。
時代に依らず治水の目的は人命と資産の保護です。この目的の達成のため、現在までの治水では、上流域において可能な場合はダムの設置、人工居住地の近傍の河道に対しては何十kmも同様の断面形状を金太郎飴さながらに連ねる連続堤防を設置してきました。しかし、連続堤防を用いる治水方式は、わずか一箇所の破堤だけで、治水の目的である人命と資産の保護ができなくなります。
上記の連続堤防方式の弱点を補う対策として、堤防の耐久性の強化がすぐに考えられます。しかし、この対策は、河川だけを注視し、河川自体と氾濫原を一体システムと捉える俯瞰的な視点を欠きます。しかも、治水の対象とすべき国内の河道の総延長は11万kmに及ぶために財政的にも堤防の強化は非現実的です。決壊しても治水の目的を達成するためには、このシステムの構成要素における種々の対策を重ね合わせ、システムとしての多重性を向上させることが考えられます。具体的には、堤防の耐久性の強化の他に、河道の制御、河道の予知保全、遊水池などへの計画的な排水、氾濫時に大水深となる宅地の法的規制や治水を考慮した都市計画などが挙げられます。
今後の気候変動への適応策として、治水方式を流域治水に転換することが2020年に発表されました。これは、河川自体と氾濫原の各々の多重性の向上と言い換えられるものです。しかし、現状では、河川自体の多重性はほぼ皆無の状態です。このため、この状態で先行的に氾濫原の多重性を向上させてもその効果の発揮は難しいです。まずは河川自体の多重性の向上が先決となります。そこで、本研究では、河川にまつわる多重性のうち、河道の制御と、河道の予知保全をどのようにすれば実現できるかについて研究します。この問いに解が得られれば、連続堤防の宿命的な弱点が克服され、河川と氾濫原を一体のシステムとして機能するようになり、人命と資産のより確実な保護が期待できるようになります。
河道の底面・平面の幾何学的形状の自発的形成機構の解明
一般に、河川の底面には河床波と呼ばれる周期的な幾何学形状が自発的に形成されます。同様に、河川の平面形状は、流下方向に一定の流路幅に流路や蛇行流路を自発的に形成します。土木工学や地球物理学の研究者は1950年代頃より、仮説に基づき物理モデルを構築し、その数値解析などにより、これらの自発的な形成機構の解明に挑んできました。しかし、現状では誰もが納得する機構解明には至っていません。
本研究室では、模型実験と実河川のそれぞれにおける観測ビッグデータの測定法を確立しつつあります。つまり、実在の河川の物理における河川の物理を規定する物理量の高い空間分解能の時系列データを取得できる研究環境を得つつあります。この環境を活用し、河床波の発生と発達の物理機構、一定の流路幅への収束する物理機構、直線流路から蛇行流路への遷移の物理機構、これら3つの完全な説明を目指します。
重要物への依存を最小とする河道設計法の開発
人工改修された河道の断面形状は、矩形断面とされることが標準です。しかし、矩形断面の保持は、物理的にも財政的にも困難であることが分かっています。このことは、矩形断面を基本とする発想自体が誤りなのではないかとの考えを想起させます。一方で、自発的に同一の断面形状へ至る法則性に着目すると、この法則性は安定と最小エネルギーを志向する自然法則(Whitesidesら: 2002)であることが推測され、河道の制御への応用が考えられます。
本研究室では、洪水時にも変形が少ない実河川の断面形状に着目し、常用される矩形断面よりも川幅を数割ほど狭くすると、この時に自発的に形成される断面形状は凹型の放物型断面となり、河道形状の変形が極めて小さいことを見出しつつあります。そこで、安定性が期待できる自発的な断面形状の河道の制御への応用を考え、この断面形状が、①洪水流を断面中央で安全に流下させられ、②洪水時に変形が少ない安定性の高い河道形状とでき、③安価な費用で施工や維持ができ、さらに、④治水と同時に自然環境を保全できること、を明らかとする研究を行います。
マイクロ波レーダー観測網の構築および河道の健全性を自律的に維持させるCPSの開発
これまで、矩形断面を標準としてきた背景には、河川におけるデータ不足が根源にあります。また、データ不足のためにモデル駆動型の解析法が常用されまするが、モデルによる自然現象の確実な把握は不可能です(Lighthill: 1986)。
本研究では、平常時と洪水時の各々における河道の制御をより確実にするため、マイクロ波レーダーの観測網を構築し、従来の河川の測定手法と比べて10の6乗倍の観測ビッグデータの取得を可能とします。この観測ビッグデータとそのデータ駆動解析により、❶ 洪水時の被害を軽減するための平常時の予知保全、❷ 洪水時の危機管理や危険 状態を市民との共有を目的とした実河川のデジタルツインを構築します。同デジタルツインの特徴は、地上マイクロ波による実河川の空間分解能で数秒間隔の高頻度な測定により、ほぼリアルタイムでの洪水の流れの状態の把握が見込めることです。
さらに、観測ビッグデータにより制御されるCyber Physical System:CPSを構築し、河道の動的な制御法についても研究します。この研究は、信号処理を専門とする村松正吾教授および素粒子実験物理学を専門とする早坂圭司研究教授との異分野融合型の研究体制で実施します。この研究では、信号処理から得られる固有値と河川物理との対応関係性を解明し、データ駆動による初の現象解明も目指します。
ミュオンを用いた河川堤防の透視技術の開発
上記までの研究は、主に河道自体の多重性を向上させる研究と言えます。河道と氾濫原は堤防により区切られており、堤防までも研究対象とすることで初めて河川の信頼性を向上させられます。しかし、現状では、堤防内部の空洞や増水による堤体の水分量の偏在などの堤体内部の健全性を実測する手法は未確立です。このため、洪水時にどの地点の堤防がどれほど危険な状態かを科学的に評価できず、危険性の把握が不十分な状態で運用せざるを得ません。そこで、素粒子ミュオンを用い、模型ではなく実物の堤防内部での水分状態や損傷状態の変化を把握する手法を研究します。この研究は、2017年秋にピラミッド内部に未知の大空間をミュオンイメージングにより発見する業績をあげた名古屋大学の森島邦博准教授と異分野融合型の研究体制で実施します。